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20221005_話そう今日のありがとう_連合会の日ブログ記事

執筆者の写真: konkomienetkonkomienet

「話そう今日のありがとう」

金光教鈴鹿教会長

上濱 謙


 教会の庭先の5~6坪程度の狭い畑にナス、キュウリ、トマト、ピーマン、ししとうなどを栽培しています。今年はよく実ができて、夏の間は毎日のように収穫でき、神様にお供えすることができました。最近、少しですが、家事の手伝いをしないといけないと思い、家庭菜園で収穫したピーマンやししとうの種を取る作業は手伝っています。ししとうもいくつも指先で種を取る作業をしていると、指先がしびれてきて痛くなって丸1日その痛みが続きます。食べると辛いししとうですが、その辛さで指先も痛くなることを始めて知りました。日常の事でもやったことがないと知らないことが、まだいっぱいあることを指先のしびれとともに痛感しました。


 妻にはこの頃よく料理を覚えるように言われます。料理は、段取りを考えて、いくつかの事を手際よくしないと時間がかかる上に旨く作れなかったりしますので、認知症予防にぴったりの仕事だといわれます。また、予想通りにはいかないこともあったりしますので、臨機応変に対処する柔軟性も必要です。多くの主婦の方たちは、こんな難しいことを簡単に毎日やっているわけですから、できない私にとっては頭が上がりません。更に子育て中のお母さんたちは、子供にミルクを飲ませたり、おむつを替えてあげたり絵本を読んであげたりなど猫の手がいくつあっても足りないような忙しさの中で日々を過ごしているのですから、不器用な私は、感謝し尊敬せずにはいられません。


 いろいろな手間をかけて食事の用意をしてもらっていることを忘れて、当たり前のように三度の食事をしていることを顧みて、あらためて感謝し、どこでお世話になっているかも気づかず過ごしている自分に、恥ずかしながら反省することが絶えない毎日です。

こんな調子ですから、自分に非があっても、また間違っていたとしても、ごめんと謝るのはなかなか難しいもので、子供のころには間違っていたり、喧嘩をしてしまったときにはごめんなさいと謝りなさいと大人や先生に諭されて、素直に謝れたのに、特に大人になればなるほど、難しくなってしまいます。ごめんの言葉と比べると、ありがとうと言う言葉はそれほど難しくないと思いますが、それでも自分はというとあまり言えてないようで、よく廻りの人たちに、ごめんとありがとう、を口に出して言うように指摘されます。まずは、ありがとうから始めたいと思います。


 中でも日常の普通の出来事に感謝できるといいなと思います。普通に過ごせることがどんなに奇跡的なことなのか、有難いことなのか。少し考えれば簡単に想像できます。例えば、天気がいいと言われる日は晴れの日で、雨の日は天気が悪いといわれることが多く、雨の日は悪く思われがちです、あいにくの天気でとか足元の悪い中などと言われます。けれども、梅雨の時期に雨が降らないと水不足が心配になったり、作物の出来栄えが気になったり野菜の値段が急騰しないかと心配する人もいるでしょう。川の反乱を起こすような土砂降りの大雨は困りますが、久しぶりに雨が降った時などには結構なおしめりですねというように、晴れの日も雨の日も、自分の都合で一喜一憂することなく、天からの恵みに、その恵みによる地の恵みにありがとうございますと感謝できる自分でありたいと思います。


 母親と一緒に教会に来る2歳の子供がいます。その子は、元気な子供で親がお話をしている間、お広前の後ろの方ででんぐり返しをしたり、椅子の周りを走り回ったり、椅子の下をくぐったり踊ったりして遊んでいます。また、時には持って来たお気に入りのぬいぐるみを椅子に座らせて、教会に備え付けの拝詞集を「はい、どうぞ」と配ってぬいぐるみの横に座り、4回手をたたいておじぎをして拝詞を読み上げる真似をしたりしています。


 最近、安価で販売されていたお掃除ロボットを購入したのですが、そのロボットがご神前を掃除しているのを見て、その子は「私は、そこには入っちゃだめだよね、でも大きくなったら先生たちの座るあそこの椅子に座りたいなぁ」と言いに来たのです。何気なく、お広前の隅っこで遊んでいるように見えて、実際はその子も、信心の稽古場所であるお広前のお働きを受けているんだなぁ、と思わずにはいられませんでした。

 

 こちらの話を聞いている様子はないのですが、「今日は暑いですねぇ。」と母親と話をしていると「汗いっぱい掻いてきちゃった。」と話に入ってきたり、「今日は、暑いから帽子被ってきたんだよ。」と言いに来ます。私自身は、一つの事をしていると、別の事を考えたり、気にしたりすることが苦手で、一つの事を仕上げてからでないと次の事に取り掛かることができないので、遊びながらも会話をちゃんと聞けていることに感心します。


 「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」ということわざがありますが、この言葉の意味はというと、ご存じのとおり小さな子供は一人で川を渡れないが、背中に負ぶった子は上から浅瀬と淵をよく見分けて教えることができる。 その子に教えられて深みにはまらずに済むこともあるという意味です。こんな小さな子にも教えてもらうことがいっぱいあるのです。

帰り際に「教会にお参りいただきありがとうございました」と私が言うと、その子は「ありがとうって言ってくれてありがとう」と返して、母親と手を繋いで帰っていきました。



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